きくち体操のある生徒さんとご近所の奥さんとの会話です。
Aさん「あら、奥さんどちらへ?」
Bさん「あら、おはようございます。今日は体操なのよ。」
Aさん「えぇ!まだ行ってらしたの?」
Bさん「ええ、もちろん。」
Aさん「何年続けてるの?」
Bさん「そうねぇ、もう10年は行ってるかしら・・・。」
Aさん「よく続くわねぇ。飽きないの?」
Bさん「飽きるとか飽きないとかそういうことじゃないのよ。
あのね、私が行ってる体操はね、・・・・。
あっ、もう、時間がないわ、また今度ね!」
ここにあるような会話、長く「きくち体操」を続けていらっしゃる方には、一度ぐらいご経験があるのではないでしょうか。
「体操をしている」というと、趣味やお稽古事のひとつのように思われる方が一般には多いようです。ところが、きくち体操は“体操”と言う名前こそついてはいますが、「時間ができたからやる」とか、「体を動かすのが好きだからやる」とかいうものではありません。
“やらなくてもいいけれど、やったほうがいい”といった、何か毎日の暮らしにプラスαするためのものではないのです。 なぜなら、“きくち体操”は生き方そのものだからです。
「この世にただ1つの自分の命を最期の時まで大切にしながら年を重ねていく方法」だからです。
オギャーとこの世に生を受けた時から(あるいは受精した瞬間から)、私たちは死へ向かって生きています。毎日少しずつ老いていきながら。 これはどんな人にも平等です。ですから、“年をとる、老い” は当たり前です。 ただ、どう老いるか、どう年をとっていくか、つまり日々の生き方が問題なのです。
ですから“年をとる、老い”を“生きる”“成長する”という言葉に置き換えると良いのです。昨日より今日そして、今日より明日と毎日自分自身と向き合う作業をしながら毎日を積み重ねていくと、「もう年だからひざが痛くてもしょうがない。」「腰がまがっても当たり前。」 「太っても食べたいものを好きなだけ食べたほうが楽しいわ。」といった言葉は自然に出てこなくなるはずです。
ひざが痛いのは年のせいではありません。腰が曲がるのも年のせいではありません。 きちんと自分を育て続けていれば年をとってもシャンとして颯爽と歩くことができます。
太りすぎて体のあちこちが不調になって、「あそこが痛い、気分がすぐれない。」と不平ばかりの日を過ごすためにあなたはこの世に生を受けたのではないはずです。
『そう、確かに理屈は分かる。だけどよっぽど意志が強い人でなければ、そんなに毎日きちんと自分と向きあうことなんてできないわ。』と、誰もが思うはずです。 そのとおりです。ですから、冒頭の会話に出てくる生徒さんのように、週に1回あるいは2回スタジオに通うのです。
そこには同じようにしっかりと生きていきたいと思う仲間がいて、目標になる素晴らしい先輩たちがいて、また気持ちをあらたにすることができます。 そして授業中のスタジオには皆さんの「気」が満ちていて、家で一人で体を動かすよりも、より深く自分自身を感じ取り確認することができるので、体もよみがえり、心もすっきりと軽くなるのです。 「よーし!」とまた気持ちが充実してくるのです。
きくち体操は何年続けても、資格も御免状もありません。 なぜなら、「これでいい」という区切りがないからです。 生きている限り続けることだからです。 ですが、自分の命を最期まで輝かせながら生きていくことができるという人生最高の贈り物を自分で自分にすることができるのです。 だから、何年も、何十年でも「今日も体操に行く!」のです。